やりたいことがなかった高校時代
大学に行きたくなくて演劇の道へ
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レール乗せられて大学に行くのが嫌だった
— あさがさんはどういう環境で育ったんですか?
4人兄弟なんですけど、私だけ大学に行っていないんです。
高校卒業後は大学に行く、大学受験が終わったら免許を取る、そうなれば一人前、というのが、あさが家では暗黙の了解になっていました。
4歳の時に父が亡くなったので、今考思えば、それは1人で育ててきた母のプライドだったと思うんですが、未熟だった私はそのレールに乗せられることがとにかくイヤでした。
学校は好きでしたが、勉強が楽しいと思ったことはなかったですし。
— 高校卒業後はどうしたんですか?
何よりも母に反抗する気持ちが大きくて、「言われた通りに大学なんて行きたくない」と思っていた高校生の時、お笑い好きな友達の影響で吉本(吉本興業)のライブを見に行くようになったんです。
そこで知り合ったスタッフさんに声をかけていただき、吉本の東京支社でアルバイトを始めたんです。今は高校生を採用しないと思いますが、当時はまだ事務所がマンションのワンルームでした。
事務所に来るのは間寛平さん、明石家さんまさん、ジミー大西さん、たまにダウンタウンの浜田さんという感じで、電話番やパソコンの入力が仕事でした。
吉本でバイトしながら演劇の養成所に
— 吉本のバイトをしていた高校生の時、やりたいことはなかったんですか?
なかったですね。すごくやりたいこともないけれど、やりたくないこともなかった。昔から反抗する相手は母だけで(笑)、あとは「これやってみたら?」と勧められたことに従ってきました。流れに乗るタイプなんです。
吉本のバイトを楽しく続けていたら、高3の進路を考える時期になり、「大学に行かずに親を納得させられる方法ってなんだろう」と考えたのが、演劇の養成所に入ることでした。
あくまでも大学に行きたくなくて選んだ道だったんです。
高校卒業後はTBS系列の俳優養成所で演技の勉強を始め、吉本では「吉本印天然素材」という、若手芸人によるユニットのファンクラブやイベントの運営をするようになりました。
「吉本印天然素材」には、人気が出始めた雨上がり決死隊さん、ナイナイさん(ナインティナイン)、FUJIWARAさんなどがいて、豪華な顔ぶれでした。勢いのある芸人さん達たちと一緒に仕事をするのは本当に楽しかったですね。
大ちゃんこと宮川大輔さんと、「いつか役者として同じ舞台に立てたらいいね」という話をしたりと、私にとっては励みにもなっていました。
— 演劇の方はどんな感じでやっていたのですが?
養成所にいる時に、「東京乾電池」の人に誘われて、若手で立ち上げた新しい劇団に入りました。
小劇場でランドセルを背負った美少女戦士みたいな役をやったりしていたので、舞台を観にきた母は泣いていましたね(笑)。
でも、そこからオーディションに呼んでもらって、徐々に大きな舞台に立てるようになっていったんです。同時に再現VTRの仕事もいただくようになりました。それが20歳ぐらいの時です。
その後、俳優・演出家の白井晃さんに自由に演じる楽しさを教えてもらい、演劇がすごく好きになっていったんです。さらに市川準監督との出会いがあり、CMや映画にも出させていただくようになりました。
歌手・布施明さんのアドバイスが転機に
— そこから話す仕事をやるようになったきっかけは?
ある舞台で布施明さんと共演させていただいた時、「君は役者以外の仕事もやってみた方がいいよ。もし、性に合わなくてやっぱり舞台をやりたいと思ったら、絶対に戻ってくるから。色々なことを考えずに違うことをやってごらん」と言っていただいたんです。
それで、事務所のマネージャーとも相談して、テレビ番組のレポーターなどもやるようになりました。千葉テレビの教育番組が初めてのレギュラーで、毎週、進行・レポーター・ナレーション全てをやらせていただきました。
テレビの仕事を始めたら、ナレーションの仕事をいただくようになり、その後はラジオもやるようになりました。すべて「やってみたら」と言われて始めたことばかりです。
自分にやりたいことがなかったから、躊躇なく新しいことに飛び込めたし、今その経験を活かして仕事を続けていられるのだと思います。
自分がやりたいことと、まわりが求めることは同じじゃない
–– 話を伺っていると、人のアドバイスに素直に従ってきたことで、いい方向に進んでいますよね。
本当に人に恵まれたと思います。流れを作ってくださる方と、常にいいタイミングで出会うことができました。
— 将来どうしようとか、自分の方向性に悩んだりすることはなかったのですか?
なかったですね。これは食べていけたことも大きかったと思います。当時はバブルの終わり頃で、まだ景気が良く、再現VTRにも衣装さんやメイクさんがつくぐらい待遇がよかったんです。高校卒業後は一人暮らしをしていましたが、自分の収入だけでやっていけていました。
今思えば、自分の親も自営業だったし、まわりに会社員があまりいなかったから、そういうフリーランスのような働き方に不安を感じなかったというのもあると思います。
一時期、「ナレーションがもっとやりたい」と思っていた時期もあったのですが、ある時、自分のやりたいものは、必ずしもまわりが求めているものと同じでないと気づいたんです。
きっかけは先ほど話した教育番組を自分から辞めたことです。移動時間を含め、取材にすごく時間を取られてしまうし、ロケもスタジオ収録も、なんだかすごくしんどくなってしまったんですね。
それで、2年で辞めさせていただいたんです。
でも、「とても向いていたのに」と言われたり、番組も次の年で終わってしまったことを耳にしたりしたら、とても申し訳なく感じて。
それ以来、求めてもらったものを受け入れた方が、自分を活かすことができると思うようになり、「自分からは辞めない」「どんなに長く続けている仕事も毎回、新鮮な気持ちで取り組む」と決めています。
そう考えると、自分から“やりたい”と思って始めたのは、片づけの仕事だけですね。10年ぐらい前に、まだ認知度が低かった整理収納アドバイザーの資格を取ったんです。
元々、片付けが好きだったので興味を持ち、資格取得後は、現場に出て片づけのサポートを行ったり、講師としても活動するようになりました。その後、縁があって一般社団法人 日本収納検定協会の理事になり、今はそれが仕事の50%を占めています。
[3]に続く
[所属事務所によるプロフィール]
[あさがさんが理事を務める一般社団法人 日本収納検定協会のHP]