※記事に書かれている内容はあくまでも山田さん個人の考えであり、ダイキン工業株式会社の見解ではありません
高3で急遽、文系から理系に変更
–医療系の短大卒業後、現在勤めているダイキン(株)に入社されたんですね。高校時代はどうやって進路を決めたのか教えてください。
小6の時から臨床検査技師になると決めていました。今の私の体つきからは想像がつかないと思いますが(笑)、子どもの頃は心臓が悪く、医療の世界が身近だったことが大きいです。
ただ、医師は学力、お金どちらの面でも厳しい、看護師は自分のイメージに合わないという消去法的な考えもありました。
同時にクリエイティブな業界にも関心があったんです。女性のアイドルが好きで、特にプロデュースしている側に興味を持っていましたね。当時は中森明菜さんや工藤静香さんのファンで、裏方のスタッフの情報にやたらと詳しかったりしました。今はAKB48にハマっています(笑)。
–大学に行く、行かないという部分で悩むことはなかったのですか?
学歴社会そのものや「とりあえず大学に行った方がいい」という考え方には意味を見出せずにいたものの、大学や専門学校を出ずに社会に出られるほど甘くないと思っていました。
臨床検査技師を目標にしていたので、大学進学を前提に高校も選びましたが、高校生になってからは音響の仕事など、クリエイティブな業界を目指すことにして文系に進みました。放送学科のある日大(日本大学)の芸術学部などに進もうと思っていたんです。
ところが高3になった春、定期検診で病院に行った時に「クリエイティブな仕事は趣味でできるかもしれないけれど、医療の勉強は大学でしかできない」と考え直し、やはり臨床検査技師を目指すことにしました。
偶然、理系から私立文系コースに変更する人がいたので、高3から国立理系コースに変わり、無事に地元の筑波大学医療技術短期大学部 衛生技術学科(現・筑波大学医学群 医療科学類)に合格しました。
視野を広げるために、病院ではなく企業に入社
–そこから病院ではなく、一般企業に就職した理由はなんだったのでしょう?
短大の3年間でひと通りの科の臨床検査ができるようになり、就職後、配属された病院の科で専門性を磨くのが一般的なルートでした。
初めは地元の総合病院で働きたいと思っていたのですが、ある先生からの「山田みたいなタイプはこれからの時代、社会で視野を広げてから病院で働いた方がいい」というアドバイスもあり、企業という選択肢も考えるようになりました。
先生に勧められたのが新規事業で医療機器を扱っていたダイキンで、当時、検査技師が使う機器と検査薬両方を作っている会社はあまりなく、ダイキンしか受けませんでした。
製薬会社で検査薬の開発をする道もありましたが、研究は研究室に籠りっぱなしのイメージがあって気乗りしなかったんです。ダイキンのロゴなど、「この会社、なんか好きだな」という直感に従った部分も大きかったです。
–その後、広報という畑違いの部署に異動したのはなぜですか?
入社時は開発でしたが、入社4年目にマーケティングに異動になり、MR(医薬情報担当者。自社の医薬品に関わる情報を病院の医師や薬剤師に知らせたり、集めたりする)として、営業したり、集めた情報を、会社が開発した診断薬の改良に生かしたりしていました。
ところが入社8年目に医療機器の部署が他の会社に営業謙譲されることになったんです。空調関連の子会社に行く道も示されたのですが、そこで以前から興味があったメディアに近い広報を希望しました。
入社時につくばの研究所で私を採用してくれた方が東京支社で広報部長をしていて、最初は「山田では無理だ」とおっしゃったそうですが(笑)、結局、その方の部下として働くことになりました。自由でありながら、厳しく指導していただいたことが現在のベースになっています。
広報に異動になったのは2000年4月。今では弊社のキャラクターとして有名になった「ぴちょんくん」が登場した時期です。「空調メーカーです」と言っても、東京では知らない人がほとんどだったので、知名度を上げてブランド構築をしていくのが最初の仕事でした。
学歴で判断される状況に納得できず、学び始める
–お話を伺っていると、医療系の国立短大からダイキンという大手企業に入社し、医療とは違う部署でも活躍されていて、学歴は関係ないようにみえます。
全くそんなことはないです。会社に入って学歴社会というものをまざまざと見せつけられてきました。
私が入社した当時は採用時に一般職、総合職という区分があり、私は一般職採用でした。まず、入社2年目ぐらいに一般職と総合職で給与が違うことにモヤモヤしました。
さらに社内通達で誰がこの役職に就いたという情報を見ると、やはり学歴が昇進などと無関係ではないと思わずにはいられませんでした。
でも、ある時、なんで自分はこの状況に納得できないのかを考えてみて、自分の学歴を上げればいいという結論にたどり着いたんです。
そこで、放送大学で学び、26歳の時に臨床検査技師としての学位を取りました。さらに30歳の時には通信制の高専で国家試験に必要な単位を取得して、36歳の時に介護福祉士の資格を取得しました。
–36歳からは引き続き、心理学やその他の勉強を続けているそうですが、かなり忙しい中で勉強を続ける、その原動力は何でしょうか?
自分の強みを知る「ストリングスファインダー」によると、そもそも私のベースに“学びたい”という「学習欲」があるようです。
さらに入社時に受けた一般常識に関する試験の成績が悪く、自分の教養のなさを思い知らされたことも、学びたいと思う理由の1つです。
あとは、何より仕事をしていて、勉強しないで済むということはないように思います。マーケティング、ロジカルシンキング、会計、マネジメント、情報学など、勉強すべきことは多々あります。英語もそうですね。
変化の大きい時代だからこそ、基礎を学ぶ大切さを実感
–学位や資格を取ったことや社会人になって学んだことによって、学歴に対する考えに変化はありましたか?
改めて思うのは、大学受験のために一生懸命勉強したけれど、それはあくまでも大学に入るための勉強でしかなかったなということです。
それなのに受験勉強によって決まった大学名だけで、自分を評価されることに納得がいかないという気持ちが私の中にはあったのだと思います。
学位を取ったことで自信は持てるようになりましたが、仕事をしていればまた新しい壁にぶつかります。結局、自分に満足することはないと分かったし、学歴はあくまでもその人を表現する1つでしかないと改めて実感しました。
資格については、取ったことが自信につながっていることは確かです。ただ、資格はあくまでも勉強の区切りだと考えているので、資格が学歴を補ってくれるとは思っていません。
私のような団塊ジュニアは、バブル期に学生生活を送り、バブル崩壊とともに就職した世代です。入社した頃はパソコンを使えなくてもそれほど困らなかったのが、今ではAI、IoTの時代となっています。時代は変化していくので、その時、どんな勉強が必要かなんて本当に分かりません。
そう考えると、新たに学び続けることが大事な一方で、中学や高校時代に基礎をきちんと学んでおくことの大切さを改めて感じます。
子どもの頃の話になりますが、私は昔から自分が納得できないことは「なぜ?なんで?」と質問したり、改善したりしたがる子どもでした。中学の時は「道で先輩に会ったら挨拶する」という暗黙の決まりに納得できなくて、中3になって生徒会の役員になり、それを廃止したこともあります(笑)。
そんなタイプだったので、中学の数学の授業で「別に茶筒の体積なんて知りたくないのに、なんで円柱の面積、体積なんて覚えなきゃいけないか分からない」と先生に言ったんです。
すると先生が「山田は授業を受けなくていいから、ちょっと来なさい」と言って、別の教室で「世の中には本当に色々な商売をしている人たちがいる。今は必要ないと思うようなことも、いつ役に立つか分からないんだよ」と話してくれたんです。
その時は納得したわけではなかったし、高校に入ってからも「こんな勉強をするなら、近所のおばちゃんから昔の話を聞いた方がよっぽど学ぶことがあるんじゃないか」と思ったりしていましたが、今になってあの先生の言った通りだと思います。
インタビュー2に続く
ダイキン工業株式会社
山田さんが発起人となって活動している「BRIなでしこプロジェクト」
山田さんが活動している和太鼓の会 筑鼓
※この記事に書かれている内容はあくまでも山田香織さん個人の考えであり、ダイキン工業株式会社の見解ではありません。