
京都精華大学教授/環境音楽家・音育家・音環境デザイナー
(2024年9月 「漢方音楽2」発売記念コンサートにて撮影)
音楽家につながる子ども時代の経験
–環境音楽家として活躍されている小松先生。子どもの頃から音楽は身近だったのでしょうか。
音楽や音環境に関する記憶をたどってみると、音楽というよりも音、とりわけ生活環境や背景に存在する「音環境」に興味がある子どもでした。例えば普通だったら怖がる雷の音が好きで、突然、ガーっと鳴るスリリングな状態を楽しんでいました。家にあった、ねじ回し式の時計が同じタイミングでカチカチという音を立てているのを聴き続けたりもしていましたね。
一浪して東京の大学に行くまで京都で過ごしました。生まれ育ったのは京都の日本海側にある丹後半島。実家の目の前は天橋立です。僕はこの時間帯にこの場所にいるといい、という、家のまわりの自然の音や風景の情報をたくさん持っていて、そこに行ってぼーっとしながら感じる、ということをしていました。環境が五感に与えてくれたものが、今、環境音楽を作っている要因の1つになっています。
アンテナが向く先はいつも音や響きでしたが、あくまでも内面的なものに過ぎませんでした。親に言うこともなく、パーソナルなものとして感じるだけでしたが、成長してからも魂が溢れ出るもの、エネルギーの向くものが変わることはありませんでしたね。例えるなら“枯れない井戸”でしょうか。地下水が出続けることで井戸が枯れないとすれば、水脈を探したり、降りてみてすくい上げたりしながら続いていったという感じです。
こうした音や音環境への興味は、今、自分の優位性になっています。世の中に音楽が好きな人はたくさんいますが、その多くは人工的に作られた音、耳に入りやすい音から生まれた音楽です。また視覚をメインにした活動をしている人が多い中で、人があまり感じない音を察知できたり、気配や雰囲気に近い音環境を細かく聴きとって分析できたりするのは自分の希少性だと思っています。さらに音に興味があるという2つの面を持っていることが優位性につながっていると考えています。
今、環境音楽を専門にしていることにつながる経験は他にもあります。1つ目は小学校2年生の時に通い始めたピアノとテクニトーン教室の先生との出会いです。先生が映画音楽好きで、映画の曲やポールー・モリアのようなイージーリスニングを「弾いてみない?」と提案してくれることが多かったんです。その演奏を通して、主役ではないけれど、背景に流れていると気持ちよい空間になる音楽の存在を知ったように思います。
2つ目は小学生の時、当時、発売まもないウォークマンを買ってもらって、父と旅行に行ったことです。松田聖子さんの「青い珊瑚礁」などを聴きながら車窓のきれいな景色をみると、初々しい歌声と共に風景まで変わったように感じました。まるで映画みたいだ!と。音楽によって風景まで変わること、音楽によって周りの視覚的なものの価値が高まるということを感覚的に理解した体験でした。
音楽で食べていこうと思っていなかった
–その頃から音や環境音楽に関する仕事をしたいという気持ちがあったのでしょうか?
子どもの頃から背景に流れる音、景色とともにある音というものを意識するようになったわけですが、環境音楽をやるぞ、と思ったことはないんです。そもそも音楽で食べていこうとは思っていませんでした。
高校の時点で興味があったのは環境問題です。当時、地球環境の悪化が話題になって、本や記事などもたくさん出ていました。今から30年以上前のことです。砂漠に緑地を入れることによって環境の悪化が止まるというような話題に興味があり、農学部で学ぼうと思いました。バブルははじけていましたが、まだ就職はしやすい時代でした。でも、学問を深掘りするのが合っているので、卒業の進路については大学教員しかないと思っていました。大学は一浪して明治大学の農学部に進学しました。
大学の農学部から3つの大学院へ。修了時は30歳に
–農学部から音楽というのは意外ですね。
大学では景観工学、簡単にいうと目で見る景観の良さを知る研究をしていて、大学4年の時に伊根湾の沿岸にある京都府の伊根町という漁村に行ったんです。
そこは地形がすり鉢状になっていて、小さな音でも対岸から跳ね返ってくる。何を話しているかまでは分からないけれど、人の声がしたり、海猫の声が聴こえたり。遠くの音が鮮明に聴こえるような場所でした。舟屋とよばれる建物が海に浮かぶように並んでいるのですが、そこに波が当たった音がすごく可愛らしいんです。
そういう様々な音が、地形のおかげでまるで自分を包み込むような感じで聞こえてきて、伊根町に存在する音にすっかり惹かれてしまったんです。
そこで感じたのは、音によって人は生かされもするし、殺されもするということ。そして、地域の風景を表現する時、音でしかできない部分もあるのではないか、ということでした。
今までうっすらと感じていたことでしたが、当時はここまでは言語化できていなかったし、すでに研究している人はいたものの日本ではまだ少なかった。この時にサウンドスケープ、音風景という概念を知り、ここに全振りしようと。それで農学部にいながら音風景の研究をしたいと思い、論文を書いたんです。
ところが、明治大学の大学院の修士課程には、そういう景色 や景観の研究をしている所がありませんでした。そこで、人との関係性を見るために抽象的な人文系の研究をしたいとも考え、農村地域の調査ができる社会学系に近い研究室に入りました。
ただ、そこでは当然、音の研究ができないので、時間論などの分野で哲学的な地域の調査をしていました。やはりもう少し音について深堀りしたいと思っていた時、京都市立芸術大学にいらっしゃるサウンドスケープの研究者の存在を知り、その先生のアドバイスもあってもう一度、修士課程に行くことになりました。
京都市立芸術大学では八重山諸島の鳩間島に泊まり込んで3カ月近いフィールドワークを行い、漁村とは異なる音環境の良さについて修士論文を書きました。この大学では副論文も書く必要があり、主論文はサウンドスケープ、副論文は音響心理学をテーマにしたんです。音を聴いて人が反応する時の心理状態を量的に測ることができる実験心理学という分野があり、漁村の音と都会の音との違いについて心理実験を行って副論文にまとめました。
将来的な仕事としてはやはり大学教員を考えていたので、2度目の修士課程を終えたものの博士課程まで行かないと話にならない。次はどこに行こうかと考えました。大阪大学で人間科学研究科と工学研究科の担当を兼任されている先生に相談して、工学研究科の環境工学に進み、博士課程では道路交通騒音の分析を行いました。道路交通騒音はネガティブな音として捉えられますが、緑地や木を活用することで、不快感を抑えられないかという問題提起のもと、視覚と聴覚で不快感を低減させていくことをテーマに博士論文も書きました。
結局、大学の後、大学院に3回行ったことになります。理系の明治大学から芸術系や人文系の京都市立芸術大学に行き、もう1回、理系に戻ったわけですが、4カ所で学び、研究をしたことで、理系のスキル的な分野と文系の芸術的な分野が混ざったという感覚です。分野が変わっているので、そこについて聞かれることが当時も今も多いですね。
大阪大学の博士課程を修了した時点で30歳近くになっていました。最終学年の1年間は日本学術振興会特別研究員に合格し、お給料をいただきながら実験や研究をしていましたが、それ以外は親にサポートしてもらっていました。親からは「どうするんだ」と言われたことはなく、ありがたいですね。
【環境音楽家・大学教授】高3で「学びたいこと」がない人へ に続く
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※文中の所属・肩書等はすべて掲載当時のものです。
※記事に書かれている内容はあくまでも小松正史さん個人の考えであり、所属する組織の見解ではありません。